地球温暖化予測結果をどう考えるか

ー科学と政策決定の関係

 

住 明正

 

 

科学が政治に影響を与えた初めての例

 

 地球温暖化に対する対応策を議論する際には、推進派も反対派も科学の成果を使用する。推進派は、科学的な知見に基づくからと主張し、反対派は、科学的知識は完全ではない(完全でないことは不確実とは違うと思うのだが、しばしば、不確実のニュアンスで使われている)と言う。両者とも、自分の政治的立場の補強に科学的知見を使っているのであるが、しかし、その方向はまったく正反対である。地球温暖化問題は、科学が政治に影響を与えた初めての例といわれているが、それは、科学的知識が政治的判断に不可欠になったという意味であって、科学的知識が政治的判断の出発点となり、議論の枠組みを与えている情況からはほど遠い状況のように思われる。このような状況は、おそらく、国民のレヴェルで科学的な知識が普及し、選挙を通して国政に反映する形になって初めて実現するものであろう。その意味では、国民への科学的知見の普及と議論を通した国民意識がどうなるかが鍵となる。

 

人間の欲と行動

 

 経済産業省の人、地球温暖化に関して現在の科学が伝え得ることを書いてくれ、と頼まれたので、現在の科学から確かに言えることは、@温室効果気体の増加に伴い地球が寒冷化することはない、A現在想定される温室効果気体の増加に対して何十度も気温が上昇して生物が絶滅する危険性はない、B高々、数度程度上昇するだけだ(地球温暖化問題の再検証、東洋経済新報社)と書いたことがある。筆者の意図は、不確実性はあるとしても、現在の科学の教えることは温暖化は確かであるし、まだ間に合うのだから今のうちに対応をとらねばならない、という意味のつもりであったが、経済産業省の人の論文では、この論文を受けて、「この程度に不確実性があるのでは、今後の地球温暖化に関する国際交渉において慎重に対応しなければならない」ということが書かれていた。その背景には、もちろん、京都議定書がさまざまな社会的要因に配慮されず決められてしまったという思いがあるのであろう。しかしながら、このことは、同じ科学的事実が与えられたとしても、個人の判断結果は、その人の持つ考え方や価値観などで異なってしまうということを示唆している。

 このことは、まったく正しい科学的事実を与えられたとしても、数学の方程式の解ならいざ知らず、社会に関連する分野では完全であることなどありえないことである。さらに、人間の欲に関連する分野では、人の行動は唯一に決まらないことを意味する。人は、確実であっても自分に都合の悪いことは不確かと考え勝ちであり、また、不確実なことであっても、自分に都合の良いことなら確実と考えるものである。

 したがって、地球温暖化に対する対応策を考えるときに、その根拠を科学的事実のみに求めるのは正しい態度ではない。必要とされるのは、状況を冷静に判断する力であり、我々の将来に対する世界観であり、また、自らの行動を律する倫理観であろう。ただ、そのためにも現在の科学の状況を知ることは必要である。そこで、ここでは、まず現在まで得られている科学的知見をまとめて、いかに行動するかの腹を決める一助にしてもらいたい。

 

確かでないからといって現状維持で良いわけではない

 

 この節では、現在まで得られている科学的な知見をまとめてみよう。普通、地球温暖化に反対する人たちが取り上げる理由は、@地球には固有の変動がある、A人間活動に起因する要因以外に様々な要因がある、B気候モデルは完全でないし、わかっていない効果が沢山あるのではないか、というようなものである。要するに、確かではない、と言いたいのである。しかし、確かでないからといって、現状維持で良いわけではない。現状維持でいることも決断の一つなのである。

また、地球温暖化予測に関して世間の人のもつ疑問は、@地球温暖化は始まっているのか?A地球温暖化予測に使われている気候モデルは信用できるのか、B温暖化したら困るのか?というような点であろう。

地球温暖化が始まっているのか、否かという質問については、正確に言うと、人間活動に起因した地球の温暖化が始まっているか、という質問である。20世紀後半の温暖化に関しては、疑問を持つ人は少ない。世界中に温暖化を示唆する例は沢山あるし、また、観測データは1980年代から充実しているので、80年代以降の昇温は事実であると考えられる。問題は、これが人間活動のせいか、否かである。言うまでもなく、地球の気候の歴史を眺めてみれば、非常に大きな変動を繰り返している。したがって、自然の変動によって、現在のよう地球の温暖化は説明できる、という主張も成り立つような気がする。

確かに、気候システムには、数多くの変動要因が存在する。それらによって気候が変動していることは事実である。しかしながら、そのことが人為的な温室効果気体の増加による地球の温暖化を否定する根拠にはならない。理論的な考察によれば、温室効果気体が増加すれば、それに伴い気候が温暖化することは疑いがない。また、地球の温暖化とは、何も変なことが起きるのではない。むしろ、気候の持つ自然のメカニズムを通して、地球が暑くなってくるのである。したがって、この結論に疑問を持つ人の言いたいことは、ここ10数年の気候の変動であり、不必要な対応をしたくない、ということなのであろう。

気候モデルが完全か?という疑問に対しては、完全ではない、と答えるしかない。実際、自然現象を扱う科学において、数学的な厳密さを期待するのは無理がある。精密科学であると思われている物理学ですら未解明の現象は存在するし、現在の理論的枠組みが完全であるとは思われない。ましてや、自然である。我々は、自然の全てを知っているわけではなく、科学的知識が完全であるか、否かという命題を立てれば、常に我々の科学的知識は不十分である、ということになる。

しかしながら、完全でないことは、デタラメであることを意味しない。そもそも、科学とは、現象の枝葉末節を取り去り本質を解明してゆくものと考えている。したがって、現象の枝葉末節に惑わされず、本質を見据えた決定が出来ると考えられる。ただ、「何が本質で何が枝葉末節か?」という点が、人によって異なることが問題の本質である。

最後の温暖化したら困るのか?という質問に関しても、最後は、価値観に基づくことになる。筆者は、単に昔に戻ればよい、と考えているわけではない。20世紀後半の経済成長は、明らかに、世界の多くの人の幸せをもたらした。その意味で、引き続き経済成長を追及してゆく必要がある。しかし、地球温暖化の問題は、衡平性の問題といわれている。温暖化したときに困るのは、貧乏な国、貧乏な人である。お金がある国や、人が好き勝手をやっていて、貧乏な国や人に将来の発展の可能性がなく、温暖化に苦しむという世界が長続きするであろうか?少なくとも、世界中の全ての人が程度の差こそあれ将来への希望の持てる世界にすることが、世界に依存して生活している日本の生きてゆく道であろう。

 

完全に正しい情報は存在するか?

 

 地球温暖化に対する京都議定書に対する反対論の一つの理由に、科学的知見が不十分、あるいは、不確かさが上げられている。しかしながら、全ての意思決定が、完全な情報に基づいて行われてきたのであろうか?と問うてみたい。全ての人間の行動において、完全な情報に基づいて行動したことはない。ただ、ただ、そのときの利用可能な情報に基づいて判断しているに過ぎない。

 しからば、現時点で科学が与えている情報は、地球温暖化に対する行動を起こすのに不十分であろうか?もはや、ほとんどの人が、地球温暖化のみならず、地球環境問題に対して、やりたいようにやってゆく(Business as Usaual)方式では駄目である、何らかの意味で、持続的成長が可能な方策をとるしかないと考えている。ただ、そのことと、自分自身が何をすればよいのか、の関連がはっきりしないだけである。それが証拠に、多くの顧客の支持で支えられる企業では、これからの成長をかけて環境にやさしい企業作りにしのぎを削っていることである。雪印食品の例で見られるように、自己の利益のために社会倫理に反した企業は、確実に、市場によって放逐されてゆくことと思われる。少なくとも、市場で商品を買う際には、安いだけではなくて環境にやさしい商品を購入したいと思う消費者は多いことと思われる。

 問題なのは、市場の評価を受けない、エネルギーや国防、社会基盤などの国の公共投資などに直結した部分である。本来は、これらの公共政策に関する市場は、国政選挙であり、この中で国民の意思が反映されていくことが必要なのであるが、現在の選挙制度と行政の枠組みの中で、これがうまく機能していないことが問題なのである。

 

不十分な知識の中でいかに政策を決定するか?

 

 物事の全体像を理解せず、個々人が右往左往するさまを表す諺として、「群盲象をなでる」という諺がある。全体を見えない人が、部分的な知識だけで全体を類推し議論している、という状況を揶揄した諺である。この場合の本質は、個人の手にしているのが局所的なデータだけであることなのではなくて、全体に関する認識の枠組みが出来ていないことが問題なのである。もし、目が見えたとしても象とは何かをしらなければ、結局、議論は混迷するものとなる。

 ここで、もし、全ての盲人が、象というものはどんなものか?という全体構想を共有しているとすると、部分的なデータを集めることにより全体像に迫ることができる。

地球温暖化問題で、気候モデルによる温暖化予測が果たしている役割は、この全体的な枠組みを提供していることにある。IPCCに結集する全世界の科学者は、反対派の意見にも耳を傾け、それらの反論の一つ一つに検討を加えてきた。たとえば、太陽活動の影響や、飛行機雲の影響や、大気中の水蒸気量の増減などが議論されてきた。その結果、我々の温暖化に関する知見は深まったといえる。現在可能な放射強制力を与えても、気候モデルを用いた計算をしてみると、20世紀後半の温暖化は、人間活動に起因するという結果が出てくる。ということは、やはり人間活動により温室効果気体を放出し続ければ、地球は温暖化するという認識を持つべきであろう。この枠組みが共通である限り、多くの部分的なデータを集積してゆけば、よりよい全体像が得られてくることであろう。

 

我々は何をなすべきか?

 

 それでは、我々は何をなすべきであろうか?筆者の意見は、「無理をしないで、出来るところからやっていこう」ということである。環境対策になると、どうしても、我慢の臭いがする。したいこともしないで我慢しているから、他人の態度が気になってくる。規制に従わない人を見ると腹が立ってくるのである。

 地球環境に関する対応策についての多くの人のもつ懸念は、その規制的な体質にある。どうしても、管理型、規制型の対応がでてくる。そうすると、公権力の肥大という懸念がでてくる。戦前の統制経済を知っている人には、その反発が強いものと考えられる。

 必ずしも、地球環境に対する対策は、規制的なものである必要はない。地球環境に対する個人の行動は多様であってよい。何も、全ての人が同じ行動をとらねばならないわけはない。ただ、結果として、地球環境保全につながるような仕組みを考える必要があろう。そのためには、遠回りのようではあるが、国民に事実を伝え、情報を提供し、国民の中で議論を続けてゆくことを通して、社会的な合意を形成することであろう。この意味では、現在の日本では、全ての情報が政府に集められ、あまり、世間に流通していないような気がする。これに対抗するためにも、民間の独自の活動を進展させてゆく必要があろう。法人化した大学も、知識が集積しているのだから、社会に対する知識の普及に努力すべきであろう。

 

すみ・あきまさ

東京大学気候システム研究センター