1. 科学の子としての政治交渉力学

住明正(東京大学気候システム研究センター教授)

1.1 科学の子としての地球温暖化問題

 地球温暖化問題は、奇妙な政治経済問題である。それは、「今起きている問題」として提起されているのではなく、「今後起きるであろう問題」として提起されてきたからである。「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第3次の報告書によれば、もうすでに地球の温暖化は起きているのでは」とか「地球の温暖化によって悲惨な未来がくる」と感じられている読者も多くいることと思われるが、もし、誰の目にも地球温暖化があきらかであれば、対応策についてこんなに議論が分かれることは無いと考えられる。もっとも、目の前に危機が迫っていても楽天的に振舞えるのが人間の本質と考えれば、誰の目にも悲惨な未来が映ることはないのかもしれない。

「今後起きるであろう問題として提起された」問題と述べると、「そのような例はいくらもある。たとえば、核軍縮問題などはその典型例だ」という声も聞こえてこよう。確かに、核戦争は起きてはいない。したがって、核戦争回避を巡る政治交渉は,起きていない問題を回避する交渉ともいえるが、しかし、戦争そのものは、有史以来数限りなく起きており、多くの知見を我々は有している。また、核戦争を巡る具体的なイメージは、過去の戦争や広島・長崎の経験を通して多くの人が持つことができる。その結果、核戦争が起きた場合、勝とうが負けようが全地球は破滅につながる、という理解は全世界的に得られているといえよう。したがって、もう少し明確にすると、地球温暖化問題とは、我々が経験したことのないことが今後起こるであろうとして提起された問題である、と定義することができる。

したがって、地球温暖化問題に対する対応は、人によって異なることになる。温暖化をしごく当然と考える人にとっては、地球温暖化に伴う地球の変化は核戦争に伴なって起きる変化のように悲惨なものと映るはずである。しかしながら、地球温暖化自身を認めない人にとっては、将来の地球の姿は、過去にあったごとく、また、現在あるがごとくの地球と考えられる。要するに、地球温暖化問題をめぐる現在の政治経済的な対応の問題は、科学的な推論に基づく、しかも、科学的解明が十分でない、人類が未経験の課題に対して、政治交渉をもった始めての例と考えられる。

 したがって、すべての地球温暖化問題に関する議論や交渉の根底には、科学が、科学によって導き出される結論の正しさが存在する。「実感としては、別に、地球が温暖化しているとは思えないが、科学的に正しいから何かしなければならない」というのが多くの人の実感であろう。科学的知見に基づいて「地球の温暖化が予測される」から、そして、「その人類社会に対する悪影響が予測されるから」行動を起こさなければならないと感じるのである。もし、この科学的な推論が疑問に満ちたものならば、行動に関する合意は形成されないであろう

では、何ゆえに人々は、科学的知見の予測を信用するのであろうか?科学者が言うからであろうか?確かに、「専門教育を受けた多くの専門家が合意したとすれば、それは正しいであろう」と多くの人は考える。それでは何故に、専門家としての科学者を信用するのであろうか?その根拠は、いうまでも無く、20世紀後半に花開いた科学技術の成果によるものであろう。言い換えれば、先進国の多くの人が享受している現在の経済的な繁栄が、科学技術の進歩の故であることを多くの人が実感しているからこそ、科学が語る「このような生活の帰結として地球の温暖化が起こり、悲惨な影響が出る」という予測に耳を傾ける気になるのであろう。

「科学的な正しさ」が問題の出発点にあるがゆえに、温暖化対策に反対する反対意見も科学に基づいた議論が行われることになる。京都議定書からの離脱を決めたアメリカのブッシュ大統領の述べる理由にしても、「地球温暖化はまだ科学的に解明されていない」ことがあげられている。この「地球温暖化予測は科学的に正しのか?」という疑問は、地球温暖化問題が政治問題化してから繰り返し提起されてきている。たしかに、現在の地球温暖化をめぐる科学には不十分なことが多い。したがって、科学的な不十分さゆえに地球温暖化対策に対して異を唱える人も存在する。しかしながら、不十分であることはデタラメ、あるいは、嘘であることを意味しない。すべての事柄が完全に解明されてから政治的な行為が行われたことはない。人は、不確実性に基づく行動でも、「やりたいこと」あるいは「儲かること」であれば、理由は万全であると感じ、「やりたくない」時には、理由は不十分と感じるのである。実際の問題に関しては、ある程度の知見に基づいて判断しなければならないのが普通である。現実的には、地球温暖化問題に対応して提起されている循環型社会や持続的成長というコンセプトは、何も地球温暖化予測にのみ基づいて提起されてきたわけではない。人口爆発に伴う資源やエネルギーの制約や、廃棄物の問題など、種々の問題を考慮して提起されていているのである。時として、このような環境破壊をもたらしたのは科学技術の所為であると主張する人もいるが、そのような情緒的な対応は間違いである。地球温暖化などの課題に答えるには、結局、省エネ技術の開発や省資源の技術の開発など、科学技術に依存せざるをえないのである。この意味で、直接的に「地球温暖化問題」を提起し、間接的に、その背景を形作ったのも科学ならば、その問題に対処し、政治・経済的な対応策をもたらすのも科学技術なのである。したがって、対応策に当たる政治としては、科学技術の水準と将来動向に強く依存せざるをえないことになる。その意味で、地球温暖化問題は、2重の意味で科学の子ということができる。

1.2 地球温暖化問題の背景

 2酸化炭素による地球の温暖化の話は、新しいものではない。古くは、19世紀末にアルヘニウスによって議論されたのは良く知られている。この問題は、戦後も、大気放射学者や気象学者によって学問的な興味の元に研究され続けてきた。それが、何ゆえにこのような大きな、全世界を巡る政治的な課題となったのであろうか?

 地球温暖化がグローバルな政治課題となったのは、1988年といわれる。確かに、この夏のアメリカは異常な暑さであり、アメリカの議会で、ハンセン博士が「温暖化の始まり」を証言したことは有名である。しかし、この異常な暑さが地球温暖化をグローバルな課題としたのではなく、地球温暖化をグローバルな課題としたのは、ソ連邦の解体に伴う冷戦構造の崩壊であろう(米本、1998)。

 人間社会を統治してゆくためには、何らかの、束縛条件・制約条件が要る。社会はまったくの自由競争・弱肉強食でよいという議論もあるが、そうであっても、資源の有限性などの束縛条件が入ってくる。現実の社会を見ると、戦後の東西に伴う冷戦構造の下では、常に、核戦争による世界の終焉の恐怖が存在し、東西陣営の意志が各国の勝手な行動を抑えていたと考えられる。アメリカのやり方に不満があろうと、中央政府のやり方に不満があろうと、勝手に振舞えば戦争につながりかねない危険性が各人の、各国のわがままを抑えたのである。それでは、この東西冷戦に伴う拘束条件がなくなった時には、いかにして各国の行動を縛り一定の枠組みにはめ込むことが可能となるのであろうか?それは、当然、グローバルな拘束条件で無ければならない。その観点では、地球温暖化問題は、核の問題と同じく、1箇所で2酸化炭素を排出していても影響は全世界に及ぶというグローバルな問題であり、また、現在の社会を決定的に律しているエネルギーと直結している問題であるがゆえに、この拘束条件としては適した問題といえる。2酸化炭素の削減は、エネルギーの削減につながるために、2酸化炭素の排出規制を通して各国の経済に大きな影響を及ぼせるがゆえに、地球温暖化問題はグローバルな政治的な課題となりえたのである。したがって、その削減を目指す京都議定書に関する各国の外交的な対応も、きわめて、各国の経済的な利害を裏に秘めた対応となったのである(オーバーテュアーとオット、2001:田辺、1999)。

 

1.3 科学・技術と社会のかかわり

 前節で述べたように、良くも悪くも現在の人間社会の基盤を形作ったのは科学技術のせいである。したがって、高度に発展した人間社会の結果として今日の地球環境問題が発生したが故に、地球環境問題の深刻化は、科学技術と社会の関係、あるいは、科学者・技術者の社会への役割を問いかけることになった。

 科学・技術と社会のかかわりの歴史は、産業革命以降、何回となく繰り替えされてきた。その最初の例は、産業革命におけるラッダイト運動であろう。そこでは、科学技術が社会構造を変える力となったのに対し、現状を維持したい人間との葛藤であり、この関係は、形を変えて繰り返されることになる。引き続いて、着目されたのは、軍事との関係である。ノーベルのダイナマイトに象徴されるように、科学技術の大きな力は、使い方を間違えれば、人間社会に悲惨な結果をもたらすという認識が広まった。しかし、この段階でも、科学技術は、それ自体としては中立であった。それ自体は、道具であり、使う人間によって善とも悪ともなると考えられたのである。それは、言い換えれば科学者の中立性として解釈された。大学を象牙の塔として、社会から離れた存在にしておくこともこの流れの一環として理解されよう。

 このような科学のあり方に、根本的な変革を与えたのが、核の問題である。「第2次大戦を終わらせるという大義がある」とはいえ、全世界を破滅されることができる武器を作るべく指導したのは、まぎれもなく、科学者であった。このことを契機として、科学、科学者と社会、あるいは、政治とのかかわりは、大きく変化してゆく。戦後の社会の発展、国家の威信は科学技術に大きく依存することが明白になった以上、積極的に国家が科学技術関与し、一方で、科学の側も積極的に国家に擦り寄ってゆくことになる。この動きに対し、感情的な反発が、イデオロギー対立の背景の下に、大きく伸びてゆくことになる。これが、原爆反対、核実験反対の運動である。

 このような核を巡る問題とともに、大きな影響を与えたのが、60年代の公害問題である。公害問題は、明治時代の足尾鉱山問題などでわかるように古くて新しい問題である。しかしながら、60年代の公害問題は、経済社会の成長に伴い公害問題が、広域に拡大したことである。この結果、反公害という運動が、地方自治体の首長選挙などを通して社会的な影響を持ったことが特徴的である。しかしながら、この段階でも、悪いのは企業、影響は地域的であった。多くの人は、影響を受ける被害者であったのである。

 この問題を根本的に変えたのが、現代の地球環境問題といえる。この問題が今までの問題と大きく異なるのは、この地球に生存するすべての人が何らかの意味で加害者であり、また、被害者となる、という問題の構造である。また、2酸化炭素の排出は、日常生活に深く関与しているがゆえに、その排出抑制は、日常生活の変革を意味し、その結果として、生活の仕方、生き方、価値観などの問題が、深刻に提起されてきたことも特徴的である。

    1.  新しい科学のあり方

 地球環境問題以外にも、原子力発電や生殖の問題、臓器移植、遺伝子改変食品など科学が政治の分野に入り込んでいている例が多くなってきた。このような事態に対し、従来の科学のあり方では対処できないのではないか?という観点から、新しい科学のあり方が提案されてきた。それが科学のモード論(ギボンズ、1997)である。従来の科学は、個人の知的好奇心に基づき、ボトムアップ的に研究が展開され、評価は同僚によって行われ、その基準は、真理の解明に如何に貢献したかであった。しかしながら、このような科学のあり方では、現在起きている問題に対しての早急な解決を望むべきも無い。したがって、社会のニーズに従い、トップダウン的に展開され、評価も、マスメディアを通して世間が行う、という新しい科学の必要性が提唱されたのである。確かに、「研究したい課題」ではなく「研究しなければならない課題」を研究すべき必要はあろう。ただ、職業として研究を行う研究者が増加した現在では、多くの研究者が「効率」を求める傾向にあるのは否めない。このような「効率」志向のもとでは、「解きやすい問題を解く」形になりがちである。

一方では、科学技術自体には、極限まで突き進む本能がある、という議論もある(5)。科学技術は人間の営みの一部に関係する営為であり、科学技術それ自体には暴走を止める力は無く、暴走を止めることに科学技術の力(科学者・技術者)を頼るべきではなく、暴走を止めるとすれば人間の力で行うしかないというのである。

これだけ科学技術が我々の生活の根底に入ってきた現在、何らかの新しい科学のあり方、科学と政治の新しい関係が必要なことは理解される。このため、持続的成長のための科学・技術の確率や必要性が声高に出張されている。しかし、地球環境問題は「総論賛成、各論反対」になりがちである。あるいは、観念論に陥りがちである。必要なこと、具体的に課題を解決して行く具体論である。それと、最も必要なのは、人々を行動に駆り立てる理念なのであろう。言い換えれば、未来を切り開くパラダイムなのであろう。この意味でも、日本の工学者たちの提案するコンセプトは参考になるであろう(市川、2000)

1.5 懐疑派の役割

 地球温暖化問題が重大化するにつれて、地球温暖化問題に反対する動きも大きくなってきた。地球温暖化問題が、科学の成果の名の下に提起されていることを受けて、地球温暖化問題に対する対応策に反対する陣営も、科学論争の形式をとって反対することになる。

 その反対根拠のひとつは、前にも述べたように「地球温暖化は起きている問題ではなく、起きるであろう問題である」がゆえに、「起きる」点を疑うところにある。「もし地球が温暖化するのが人間活動の所為でなかったら、規制を通して社会生活・経済生活にひどい影響をあたえることになる」という主張である。したがって、現在の主流の科学的な結果を疑うので、これらのグループを総称して懐疑派と呼ぶのである。もちろん、懐疑派と言っても、そのグループは一枚岩ではなく、特別の理論体系があるわけでもない。また、背景も多様である。とりわけ、温暖化対策を取られると商売がうまくいかなくなるとされる石油業界の支援も指摘されている。また、IPCCの場での産油国の反対などは有名である。さらに、経済的に大打撃を受けると思っている業界なども内心は反対であろう。しかし、反対意見を見ることにより現在の議論の不十分さがわかることになり、我々の議論が深まるという利点もある。そこで、ここで反対意見のポイントを抑えておこう。

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(脚注)日本では、多くの業界の人が内心では温暖化に対しては疑問を持っていたと思われるのに、公式に「温暖化は間違い」と主張する人は少なかった(薬師院、2002)。また、そう主張する人は、人の意見を聞かない、という態度をとる人が多い。これなども、議論が成立しがたい日本の風土を表していると思われる。

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 反対意見の第一は、気候の予測など不可能である、とする意見である。気象現象からカオスが見つけられたことは有名であるが、気候システムには予測不可能なシステムであり100年後の気候の予測など、本質的に無理である、と主張する。極端には、「天気予報も当たらないのに、何ゆえに、100年後の予測が正しいと思うのか?」と主張する。

2の点は、現在の科学的知見では将来の気候を予測するには不十分である、ということである。気候システムに関する我々の知見は限られているし、解明されてない要因は山のようにある。雲やエアロゾルの気候に及ぼす影響など昔から指摘されているが、依然として未解明な点が数多く存在する。また、現在までのデータですべての現象を網羅している保証は無い。温暖化した気候になったときに、現在起きていないような現象が発生し、温暖化が抑制される可能性を否定することはできないのである。したがって、不十分な知見に基づいて行われる予測に基づいて個人の自由や経済活動を規制するなどもってのほか、という議論になる。

 第3のポイントは、気候は種々の要因で変動しているのであり、温暖化が人間活動のせ

では無い、というものである。確かに、地球の気候は変動している。その代表例は、エルニーニョであろう。それ以外にも、氷河期も存在したし、白亜紀に見られるような温暖な気候も存在した。太陽活動の影響も存在することは疑いの無い事実である。それゆえに、「現在の温暖化が、これらの自然の変動によるものでないとどうしていえるのか?」と声高に述べるのである。とりわけよく出てくる議論は、「1970年代には、氷河期が来ると言っていたのではないか?」ということである。

 これらの反対意見に共通するのは、地球の温暖化は完全に証明されていない、という点である。しかし、数学や実験室で研究できるような問題とことなり、自然を扱う地球科学では、完全に証明するということは不可能である。また、完全でないということはデタラメであるということではない。また、地球温暖化を巡る方法論は、従来の科学の方法論と少し異なるところがある。従来の科学では、存在する問題を解く、あるいは、理解することを目的とした。したがって、そこでは問題そのものを疑うことはなかった。その規範に従えば、人間活動に伴う地球の温暖化などは、100年後を待って見るのが最も確実な方法である。しかし、「地球環境問題はそこまで待つことができない、問題が確認されたときには手遅れ」というのが要点である。このような論点の曖昧さは、防災の科学、予測の科学には本質的に含まれるのである。防災とは、災害が起きるからお金を用いて災害を回避するために行動をとるのである。したがって、災害が起きる必要がある。繰り返し起きる災害などは、過去のデータから災害が起きるであろうことが実感できるが、初めての事象ではこれも不可能である。したがって、何らかの意味での被害が必要となるのである。さらに、懐疑派をもてはやす背景には、環境問題に伴う規制のにおい、あるいは、権力による管理社会のにおいを感じて反発する感情や、体制に迎合して研究資金を得ようとする研究者に対する反感があると思われる。

1.6 地球温暖化問題をもたらした科学的知見

 地球温暖化は科学によって支えられているために、それを巡る政治的な議論でも、科学的に正しいか、否かが出発点となる。したがって、ここでは、地球温暖化をもたらすと考えられる科学的な知見を整理しておこう。 

地球の気候は、太陽からのエネルギーによって維持されているのであり、どの程度の気温が維持されるかは、気候システムに出入りするエネルギーの収支で決まる。地球に入ってくる太陽エネルギーは、約6000度の温度に対応する熱放射であり、可視光と呼ばれる波長は短い電磁波なのに対し、地球から出て行くエネルギーは、約270度程度の温度に対応する熱放射であり、赤外線と呼ばれる波長の電磁波で行われる。これらのエネルギーの出入りを放射収支と呼び、観測的にも理論的にも研究されてきた。ここで、本質的な点は、入ってくるエネルギーの波長と出てゆくエネルギーの波長が異なることである。温室効果気体とは、入ってくる太陽エネルギーに関しては透明であり透過させるのに対し、出てゆく地球からの放射を吸収する物質なのである。出てゆくエネルギーを補足するからこそ、地表の気温は高くなるのである。だから、出てゆくエネルギーを細くしなければ温度は非常に低くなる。例えば、空気の存在しない月や空気の薄い火星などでは、昼間には温度が高くなり、夜間には、氷点下になることはよく知られている。このような激しい昼間と夜間の温度コントラストに比べて、地球の昼夜間の温度コントラストはそれほど大きくない。これは、地球が大気の衣をまとっているからであり、大気の持つ温室効果の故である。

 しかしながら、実際の大気の放射収支はそれほど簡単ではない。大気中には、雲もありエアロゾルと呼ばれる微粒子が存在するからである。電磁波は、真空中でも伝播するし、空気などの物質の中でも伝播する。しかし、物質の中を伝播するときには物質によって吸収されたり散乱されたりする(光の屈折や反射を思い起こしてもらい)。地球に関する放射収支でも、空気や雲やエアロゾルによる反射・吸収・散乱が存在し、複雑な結果となる(図1参照)。大雑把に言えば、地球に入ってくる太陽エネルギーの約30%は、雲や地表の雪や氷で反射されており(この30%を地球の反射率(アルベド)と呼ぶ)、約20%が空気や雲・エアロゾルによって吸収される。したがって、地表面に到達するのは、地球大気の上端に入射する太陽エネルギーの約50%である。

 2酸化炭素が倍増したときに地表を暖める程度は、約4W/m2といわれている。これは、現在の地球の条件で太陽の光の強さが2%程度大きくなったときに対応する。言い換えれば、2酸化炭素が倍増しても、地球の反射率が2%変化すれば何も変わらないことになる。言い換えれば、雲量が2%変化すれば地球は温暖化しないことになる。しかしながら、問題は、それほど簡単ではない。雲は、地球全体に及ぶ空気の流れの結果として決まっているわけであり、この空気の流れは、海面水温や雪氷の分布など気候システム全体の変動によって決まっている。したがって、正確に物事を判断しようとすると、気候システム全体のふるまいを理解をしなければならなくなる。

地球大気の中を太陽放射や地球放射がどのように伝播してゆくかを研究するのが大気放射学と呼ばれる学問である。日本では、東北大学の山本義一先生が中心となり研究が進められた。その研究成果を取り込んだひとつの成果が、Manabeら(1975)による放射対流平衡モデルである。その中でも、2酸化炭素が倍増したときの気温の変化が計算されている。したがって、温室効果気体の増加に伴う地球の温暖化についての科学的な知見は、昔から得られていたといえよう。

放射対流平衡モデルは、地球全体を平均した鉛直1次元のモデルであり、そこでは、雲量や湿度などの大気中の水に関連する物理量は経験値を用いざるを得なかった。言い換えれば、地球の空気の中に含まれる水物質、雲や雨や水蒸気は、大気の循環によって決まるのであり、この量を正確に知るためには、大気の3次元の運動を正確に表現できる必要がある。

大気の3次元の運動を表現しようとしたのが、大気大循環モデルである。大気の3次元の運動を表現するには、単に空気の流れのみならず、温度の場、湿度の場、雲の場を表現しなければならない。そこでは、単に流体の運動のみならず、熱エネルギーや水の流れも表現しなければならないことになる。したがって、その方程式系は、膨大な自由度を持つ非常に複雑な系となる。したがって、その解を求めるためには、コンピュータを用いた数値解法に依拠せざるを得なくなった。

コンピュータを用いた計算による自然の探求については、最初の頃には、非常に抵抗感が強かったといわれている。方程式系の解を求めることは、物理学の基本であるが、従来は、特殊関数と呼ばれる解析関数を用いて解を求めるのが主流であった。このような数学的手段によらず近似計算で答えを求めることに関しては、その答えの妥当性に関して疑念を持つ人が多かったのである。このような点に関して、日本は、それほど偏見が強くなかった。そこで、戦後の気象界では、多くの若者が数値モデルの研究を行ったのである。しかしながら、戦後の日本には、これらの多くの人材を養う地盤はなく、多くの人がアメリカにわたり活躍することになる。

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(脚注)余談であるが、1970年代のアメリカには、GFDL,NCAR,UCLA,Randコーポレーションの4つの大気大循環モデルがあったが、そのうちの3つ(GFDL,NCAR,UCLA)は日本人研究者は中心となって開発されたものであり、広く、世の中で使われた。これに比べて、本国の日本では、大気大循環モデルの開発は大きく遅れを取った。70年代にこのような開発を可能とする人材を擁していたのは気象研究所のみであり、しかも、必要とされるコンピュータがなかったのが理由である。日本におけるモデル開発が加速されるのは、地球環境問題が広く認識される90年代に入ってからである。

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大気大循環モデル、あるいは、海洋大循環モデル、さらに、これらを結合した気候モデルは、天気変化のような自然現象を物理的な法則に基づいて理解しよう、あるいは、予測しようとする科学者の試みから出発した。地球に関する科学は、人間が存在する基盤としての地球を研究するが故に、研究と実用とが不可分に結びついている。地球大気に関する研究も、天気予報と表裏一体の関係を持って進められてきた。さらに、気象や海洋に関する情報がもっとも必要とされる分野のひとつに軍事が挙げられるために、好きと嫌いとにかかわらず、軍事と結びついて発展してきたことも事実である。

このような気候モデルの予測の結果は、IPCCの活動によって集大成されている。しかしながら、ここで問題になるのは、気候モデルに予測の精度、あるいは、予測可能性である。

100年後の1月1日の天気などが予測できるとは誰も考えない。では、何故に100年後の気候が予測できると考えるのであろうか?その理由は、気候状態は、長期間平均した状態であり、また、地球規模の温度のように空間的にも平均した状態である。したがって、このような気候状態のゆっくりとした変動を規定しているメカニズムがあると考えるのである。先ほど述べた放射平衡という考え方もその一つである。所詮、地球の気候は入ってくるエネルギーと出てゆくエネルギーの差で決まるのである。また、どの程度の確からしさで予測をしようとしているのか、その精度が問題となる。地球の気候の変動を、0.1度の精度で予測することは困難であるが、10度の精度で予測するのなら可能であろう。

確かに、現在の気候モデルには不確実性が存在する。たとえば、図2に、東京大学機構システム研究センターと国立環境研が開発している気候モデルで、モデルに用いるサブルーチンを変えた時に、大気中の2酸化炭素が倍増したときの全球気温の上昇の程度がどの程度変化したかが示してある。同様に、各国の気候センターのモデルによる予測結果も示してある。同一モデルでも、異なるモデルでも、予測結果のバラツキは存在するのである。

しかしながら、気候モデルの予測のバラツキは、数十度というわけではない。たかだか、2-3度の程度である。この程度のバラツキは、気候システムの多様性・複雑性を考えれば無くすことのできない程度と考えられる。ただ、気候モデルの予測している結果は、2酸化炭素が倍増すると、@気候は寒冷化することは決してない、A数十度も温度が上昇して全生物が絶滅することもない、B高々数度程度温度が上昇する、ということであり、十分将来の方向を指し示していると考えられる。

    1.  未来にむけて

 最後に、懐疑派に見られるように読者の人もさまざまの疑問を持っていられると思われるので、その質問に答える形で、将来に関する方向を提起しておこう。

まず、「本当に地球が温暖化しているか?」という疑問である。この背景にあるのは、データが十分存在しないのに、何故に、最近の気候が温暖化したといえるのか?という疑問である。詳しくは、住(1999)を参照してもらうのが良いが、簡単にまとめてみると、全地球を覆うような完全なデータは最近の20年程度しかないが、それ以前にも数々のデータがあり、また、堆積物や氷床コアなどの古気候のデータもあり、これらのデータを用いた気候の変動の復元は可能なのである。また、この復元を最近の観測データで検証しても、大体の精度はあると考えられる。したがって、最近は暖かくなっている、ということは疑いの無い事実であると考えられる。

2番目の疑問は、「地球の温暖化は人間活動の所為か?」という点である。残念ながらこの疑問に完全に答えることは不可能である。完全に答えるには、2100年を待つのがもっとも確実であろう。「人間活動が地球温暖化の原因である」という結論は、完全に気候モデルに依存している。すなわち、気候モデルを用いて20世紀の気温の変化を再現してみると、人間活動に伴う2酸化炭素の増加を入れない限り、最近の温暖化を再現できない、という結果に依拠している。したがって、気候モデルの能力は完全に信用できない、とすれば、この結論は否定されることになる。

気候モデルの能力に関する評価は、人によって異なるのは事実である。しかし、20世紀の気候の大きなスケールの、ゆっくりとした変動は、大体再現されている。したがって、完全ではないが、まったくデタラメではないと考えてよい。そう考えると、やはり、人間活動による影響はある、と考えるのが自然であろう。

最後の、もっとも困難な疑問は、「温暖化して何が悪いか?」という疑問である。「温暖化したら、氷が解けて東京が海の下に沈む」というような表現がマスコミを賑わすが、嘘である。2-3度の気温の上昇で、人類が滅亡するような大きな変化がおきるはずはない。ただ、気候の変動は、弱い層に大きな影響を与える。個人では、貧困層であり、国では、開発途上国である。したがって、世界的には、不安定な世の中になると考えられる。

地球の温暖化は、@水、エネルギーが十分ある、Aお金で何でも購入することができる、Bお金に不自由しない,という条件が満たされれば、問題は無い。しかしながら、この仮定が日本にとって未来永劫続くであろうか?筆者は、このような条件を維持してゆくためにも、地球温暖化などで世界の支持を受ける必要があると考える。少なくとも、未来は、自分たちだけが勝手に振舞えばよい、という時代ではないと考えるからである。

現在は、なかなか将来を見通せない時代である。しかし、このような時代であるからこそ、科学が指し示す本質的な方向を見失わず、突き進むべきであろう。それが、科学によって産み落とされた地球温暖化を巡る政治経済の課題であろう。

参考文献

  1. 米本昌平、知政学のすすめ、中公叢書、中央公論社、258ページ。
  2. S.オーバーチュアー、H.E.オット、京都議定書、シュプリンガー・フェアラーク東京、438ページ。
  3. 田辺敏明、地球温暖化と環境外交、時事通信社、340ページ。
  4. マイケル・ギボンズ、現代社会と知の創造、丸善ライブラリー、丸善、293ページ
  5. 市川惇信、暴走する科学技術文明、岩波書店、317ページ。
  6. 薬師院仁志、地球温暖化論への挑戦、八千代出版、334ページ。
  7. 住 明正、地球温暖化の真実、ウエッジ選書