第一話 『神話1992』(W氏のフィクション)
″進化の星″の誕生
ILLUME (A TEPCO SEMINNUAL REVIEW Vol.4 No.1 第7号より 1992/4発行)
いまから百五十億年前、ビッグバンによって宇宙が創造され、五十億年前ごろ超新星たちの爆発によって、太陽系が属する銀河系が誕生した。
太陽は、この銀河系の端に位置し、その第三惑星としで、水が液体として豊富に存在する地球が生まれた。水が液体として存在できる温和な条件は、宇宙空間では特異な例であった。このため、他の惑星とはまったく異なる世界が出現する可能性が大きかった。
ここに進化の神が登場する。
進化の神の役目は、宇宙空間に色彩豊かな高度な機能性を持つ世界(元素のシステム)を創り出すことであった。
太陽系第三惑星は、その立地条件からみて進化の神の興味を充分そそる素材であった。
神はお考えになられた。
「この温度・圧力条件ならば、九二の元素の中で反応性に富む、水素・炭素・窒素・酸素・イオウなどを使えばなんとかなるかもしれない。幸いなことに、この惑星の内部も溶けて流動性に富んでいるようである」
進化の神はこう思いつくと、ふたりの兄妹をおつくりになった。そして、こう命じられた。
「あの第三惑星を地球と呼ぶことにする。地球にある材料を使って進化のシステムを創れ。兄は、地球全体の物質進化を担当せよ。妹は、手先の器用さを生かして、精巧な生命体を創れ。両人が力を合わせればきっと素晴らしい″進化の星″に生まれ変わるであろう」
こう命じられた進化の神は、兄と妹に光り輝く一個の珠″進化の珠″を与えられた。
「われわれの創る世界を生物圏と呼ぶことにしよう。では私から始めよう」
兄はそう言って進化の珠を手に持ち、海から水を蒸発させ、雲を作り、雨を降らせ、河となって海に注ぐ、水の循環系(水素と酸素の循環系)を作り上げた。
「最初の準備完了」
兄はそう言って進化の珠を妹に投げた。
これが兄妹が行なった四十億年に及ぶ長い長いキャッチボールの第一球であった。
水の循環系は、海やその岸辺、広い浅瀬に大気中や地表で作られたいろいろな有機物を濃縮することになった。これらの有機物の中には、生命を創り出す材料となるアミノ酸、核酸塩基、ポリペプチド、クロロフィルのヘム鉄骨格のポリフィリンなどが含まれていた。
これらの材料を利用して、精巧な生命というシステムを作り上げるのが妹の役目であった。生命誕生に先立つ化学進化の始まりである。
太陽エネルギーで水を分解
長い長い不屈の努力によって、まずバクテリアに似たものが作り出された。この初期のバクテリアは、有機物を餌としてエネルギーを得、増殖することができた。しかし、増殖が活発になると周辺の有機物が底をつき、安定した世界を作ることはなかなか困難であった。
困り果てた妹は、進化の神が住む太陽を見上げながら水辺で考え続け、一つの結論に達した。
「兄の作ったシステムを利用しなければ永遠に続く進化システムは作れない。そのためには、地域に無限にある太陽エネルギーと水を使うところから始めなくっちゃ」
こうつぷやいた妹は、太陽エネルギーを利用して、水から陽子を汲み出す光と色素のシステムを作り上げた。得られた陽子(・H)は、当時地表にたくさんあった炭酸ガスにくっつけることにした。いわゆる光合成である。
このシステムでは、水の一つの分子が二つの陽子と二分の一の酸素分子になり、それが水分子にもどる(H2O -> 2・H + (2/1) O2 -> H2O)サイクルの中で水素エネルギーを生物活動に利用できる。これは地球の水の量を考えると、半永久的に続くリサイクルのシステムであった(図1)。
「これでひと安心」
妹は進化の珠を兄に投げ返すと休息に入った。いまから三十五億年前のことであった。この光合成機能を獲得した植物は、現在藍藻と呼ばれる微小藻類である(写真1)。
藍藻が勢いよく増え始めると、周囲の水中にたくさんの酸素が放出された。それまでの細菌は、現在知られている硫酸還元菌やメタン細菌のような嫌気性菌であったので、有毒ガス、酸素の障害によっで、たちまち死滅し始めた。
これを見た兄は、
「これはいかん。せっかく妹が苦労して作った作品が全部だめになってしまう」
と叫んで、藍藻が出す酸素を当時の海にたくさんあった二価鉄や硫化水素、パイライト(FeS2)などの還元物質につかまえさせることに全力をかたむけた。毒ガス”酸素″を利用する
この兄の奮闘によって、藍藻によって放出された酸素は、酸化鉄や硫酸中にトラップされ、その後十五億年間、大気中に酸素は増えないですんだのである。
この時間を使って、細菌の中から自力で、酸素障害を防ぐ能力を獲得する微生物が現われた。
十五億年も奮闘した兄は疲れてしまったし、海に還元物質もなくなったので、
「なんとかしろ、充分な時間はかせいだぞ」
と叫んで再び珠を妹に投げ返した。珠を受け取った妹は、すぐさま気になっていた問題を一気に解決する仕事に入った。すなわち有機物を燃やして二酸化炭素にするシステムを酸素耐性の微生物に組み込んだのである。
この酸化には、藍藻の生産した酸素が使われたのはいうまでもない。
妹のアイデアは素晴らしいものであった。これで二酸化炭素が有機物になり、再度二酸化炭素に戻る炭素のリサイクルシステムが完成した。妹は兄を助けたのである。
有機物を体の中で二酸化炭素にまで酸化できるようになり、徽生物による有機物の消化効率は飛躍的に増した。すなわち、同じ畳の有機物で約十倍のエネルギーが得られるようになったのである。
カを得た微生物たちは、妹があまり手をかさなくでも、みるみるいろいろな種類に進化していった。
アンモニア(NH4+)やイオウ(S2-)を酸素を使って酸化する硝化薗やイオウ酸化菌が出現するようになった。
「素晴らしいプレゼントをあげる」
妹はうれしそうに叫んで、進化の殊にこれらのバクテリアを添えて投げ返した。空気中の酸素が現在の1%になったころである。
「これはいける。ありがとう」
といって、兄はたちまち窒素のリサイクル系やイオウのリサイクル系を作り上げた(図2)。
「これで妹の子供たちに必要なリサイクル系は全部そろった」
と、つぶやきながら兄は大気と水に命じで炭素サイクル、窒素サイクル、イオウのサイクルなどをゆっくりと回し始めた。
大気中の酸素は順調に増えていった。陸にも広がる生物圏
しばらくするとサイクルに異変が起こり始めた。大気と水のサイクルの中の炭素や窒素がすこしずつ減り始めたのである。あちらこちらサイクルを調べたあげく、原因が堆積物にあることがわかった。有機物の一部が海底に沈み、堆積岩となっで地中に埋没していたのである。
「これはいかん」
兄は、そうつぶやくと、時々相談に来てもらっていた進化の神の息子である地の神にさっそく助けを求めた。地の神は、
「父(進化の神)から頼まれていたことだし、いつでも協力するよ」
と答えて、地中の溶けたマントルを地上のサイクルに合わせて動かし始めた(図3)。
このエネルギーで堆積岩ができ、陸や大山脈ができ、埋もれた堆積物が地表に戻ってきた。地上の堆積物は風化され、その中の有機物は、二酸化炭素やアンモニア、硝酸になって風と水の循環に戻ってくるようになった。
「やれやれ」
一息ついた兄に、妹が声をかけた。
「地上に生物を作りたい。だけど太陽からの紫外線でみんな死んでしまうの」
「そんなことは簡単だ」兄はそう答え、酸素が現在の一割の量になったとき、空高くオゾンのカーテンを作り、
「もう大丈夫」そう言って、そっと珠を妹に渡した。五億年前のことであった。
珠をもらった妹は、最後の仕上げとばかりエネルギーあふれる生物たちに、工夫をこらして、地上に植物や動物たちを作り、陸で寝ていた兄のそばに、珠と一緒にこれらの生物を置いた。
二億年前ごろ、眠りから覚めた兄は、物質循環が海と鷹を含む地球全体に広がっているのを見て、「やっと地球規模の生物圏が完成したか」
と、その感慨は口に出せないはどであった。
ここで兄は最後の仕上げを行なった。
それまで一つであった大陸をいくつかに割り、マントルの流れによって動くようにしたのである。
「これによって、堆積物の循環は永久に続くし、割れた大陸では生物が別の進化をたどるから、妹も喜ぶだろう。一石二鳥だ」
兄は、長年の疲れをとるために、進化の珠を箱に入れ、また深い眠りに入ってしまった。″考える”生物の登場
妹は、飽きもせず自分の作品が自力でいろいろな進化をとげる様子を眺めていた。ところが五千万年ほど前、大異変が突発した。大きな隕石が地球に衝突し、妹の作った自慢の作品がめちゃめちゃになってしまったのである。特にお気に入りの恐竜は全部死に絶えてしまった。
「やりなおさなくちゃ」
妹は、大変気落ちしたが、気を取り直して進化の珠を箱から取り出し、しばらく考えた後、敬愛する兄に似た生物を作ることにした。
「兄のように考えるカを持つ生物なら、どんな事件でも切り抜けられるだろう」
ここで妹が考えついた究極のシステムは、脳の仕組みであった。その細工は精緻を極めたものであった。脳の進化が始まるようにしたのである。考える能力を持った動物たちの闘いは、妹の興味を充分満足させるものであった。
いまから七百万年ほど前、奇妙な二足歩行の動物が出現した。その動物の脳は異常に発達していた。
ヒト科のヒトの出現である。かれらは、道具と火を使い、言葉で意思を通じ合った。そしてその行動は兄弟に次第に似てきた。
妹の成功は間違いないようであった。
目を覚まして、ヒトの様子を見ていた兄は妹に言った。
「私たちの役目は終わった。そろそろ帰ろう」
二人は進化の神が命じた最後の作業に入った。進化の珠は箱に入れ、一篇の詩とともに地中深く埋められた。そして、ふたりは二度と戻らぬ地球とそのなかの自分たちの作品をいとおしげに眺めたあと、空のかなたに去っていった。
詩には次のようなことが書かれていた。 生物圏の歌が聞こえる
進化の珠は一つなり、時は神と賢人の手に
大地はまわる細く長く、光はぬける太く短く
まわる大地は山となり、大気はここに始まる
光は緑に入り、熱となり、命はここから始まる
兄は酸素を、妹は水素をはぐくんだ
すべては水に始り、命の歌声が流れる
進化の珠は一つなり、時への挑戦は賢人の手に
ヒトが二十世紀と名付けた時代に入ると、人類は″進化の珠″によく似た″進歩のガラス玉″を手にしはじめた。ガラス玉は無数に飛びかい、なんらルールが見られなかった。地球の生物圏に混乱が始まった。
自然と生物の進化
「第一話は、ここで中断しています」
ヴアーダ教授は、ここまで読むと、そう言って本を閉じた。
「私の先祖は、元来小説家ではないので、この物語はあまりうまく書けていません。しかし、彼の言いたかったことは、次に紹介する彼の講演の記録のなかに具体例として出てきます。
彼の生きた時代は、地球規模の環境問題が始まり、地球を一つの生命体とみなして、これを守ろうという気運が高まった時でした。
W氏は、あとで紹介しますように、”自然と生命の二重らせん”という図を作成し、物質循環・生命の進化・地球の社会化を位置づけて、地球生命体を概念化することを試みております。
この概念図のなかには、W氏の一つの考えがみられます。彼は、生物圏を、元素とその集合体である化合物、そして化合物間の反応、水と大気による物質の循環で説明することができると考えていたようです。
いかにも生物地球化学者らしい考え方です。
進化にはいろいろな定義がありますか、彼の考え方では、進化とは、元素の集合体が時間とともにより高度な機能化されたシステムに変化していくことのようです。
このような目で生物圏の歴史を眺めると、そこには二つの進化の軸があることになります。すなわち、兄の役割に相当する物質循環系の進化と、妹の役割に相当する生物進化です。この時代は分子生物学が起こり、DNAの二重らせんが生命の本質であるという考えが一般的でありました。
そこで彼は周囲の注目を喚起するために、生物圏の進化していく姿に”自然と生命の二重らせん”という名前を付けたようです。この二つの進化の軸は助け合いながら、より高度なシステムとなっていきました。
生物は、物質循環のなかで重要な役割を果たし、一方、物質循環系は生物進化に大きな影響を与えたことがわかります。この相互関係をW氏は進化の珠とそのキャッチボールで表現しております」休憩
「さて、コーヒーブレイクも終わりましたので、話の後半はW氏の行なった講演 生元素の歴史 に移りたいと思います。これは、彼が市民講演会で話した内容を収録したものです。
このなかでW氏は、
「生物地球化学とは地球規模の広い視野から地球という特殊な系の中で、生物体を構成している元素、すなわち生元素の進化の研究を行なう学問である」
と定義しています。
彼の言によれば、生元素の進化には、さきほどちょっとふれたように、物質循環系の進化と生物進化の二つの和があることになります。そして、この二つの軸の進化の歴史のなかで、水の循環系と光合成によって、水から生まれた水素と酸素が重要な役割を果たしてきたと考えています。
具体的には、水の循環系は永遠に続くリサイクルを担っておりますし、あとで紹介しますように、物質循環系の進化の推進者は酸素であり、生物進化は水素エネルギーの有効利用向上の歴史ともいえます。
彼の考えを一言でまとめると『すべては水から始まった』ということになります。この講演でW氏は次の点を強調したかったようです。
まず、われわれの地域を一つの大さな系として理解することが必要である。その一つとして、地球系における生元素の進化の歴史を学び、そこから、地球市民が守るべき生物圏の約束をあきらかにしよう。そして生物圏がつくった巧妙なシステムを学ぼう。これが、人類が賢人(ホモサピエス)に脱皮する第一歩である。