第二詰『生元素系の進化の歴史』

(W氏の講演『生元素の歴史』より)

ILLUME (A TEPCO SEMINNUAL REVIEW Vol.4 No.1 第7号より 1992/4発行)

三つのキーワード

一九六九年宇宙船アポロが月面に着陸し、人類は初めて水惑星としての美しい地球の全貌を見ることができました。この強烈な印象は、人類の住む地球が一つの系であるとの考えを世界中に広めるようになりました。
 この美しい地球が人類の活動によって、蝕まれ始めているのではないか。
 これが、本日の講演会が開催された大きな理由と思われます。一例をあげますと、地球大気の二酸化炭素やメタン、亜酸化窒素が刻々と増えております。地球の温暖化が心配されております。
 これらのガスの増加は、すべて生物体を構成する水素・炭素・窒素・酸素などのサイクルの乱れから起こってているわけです。したがって、これらの問題の本質を正しく理解するためには、生元素の進化の歴史とその循環を正しく理解し、人類活動の影響を正確に評価することが不可欠となります。
 この地球問題に関連して、たくさんの新しいキーワードが生まれました。人口爆発、オゾンホールなどです。私は、一生物地球化学者として、生物圏の歴史にまつわる三つのキーワードをあげ、そこからイメージされる地球生命体を考えることから話を始めたいと思います。
 三つのキーワードは”生命体””万物流転””地球の社会化”です。
”生命体”とは、たえず外界から基質や食糧を取り込み、生命活動の恒常性(ホメオスタシス)を維持し、核酸DNAのもつ遺伝情報によって自己の再生産を行なっている系であると定義できます。
 生命の単位である細胞には核があり、DNAは二本のひもがより合わさった二重らせん構造をしております。細胞のなかには核のほかに、蛋白を合成するリボゾーム、呼吸系が動きエネルギーを獲得するミトコンドリアなどが存在し、生命体の基本単位である細胞のなかが分業体制になっていることをご記憶ください(右図4)。
 さて、外界から物質を取り込むためには、リサイクルをともなう物質循環系の存在が生命活動の維持に不可欠となります。万物流転″とは、いにしえの人びとがこのことを直観的に感じとつた言葉といえましょう。
 地球上での物質循環の媒体は、水と大気であります。したがって、流転″するためには、物質がこの二つの構成成分となることが必要です。事実、現在の大気の成分は、希ガスを除いてすべて生元素の化合物によって占められており、生物のさまざまな代謝系に利用されています。大気は全地球を覆っております。このため大気の成分は地表のどの場所の生態系にも簡単に入っていくことができます。このことは循環系が地球規模になるために大変重要なことになります。一方、人類社会のエネルギー消費や食糧増産などが地球全体の生物圏の存続に影響を与え、これが社会問題となることを、ここでは地球の社会化″と呼ぶことにします。
 農耕・牧畜時代の人類は、まだ数も少なく力も弱く、考える葦″であったかもしれません。当時の人びとの生活基盤は、太陽エネルギーを食べることにありました。しかし、現在の科学技術文明の発展は人類のカを強大にし、生物進化と物質循環系を食べる存在に押し上げてしまいました。
 具体的には、遺伝子の操作と石油の大量消費や森林破壊などです。後者によって大気の組成が急激に変化しはじめました。
 これら三つのキーワードを頭にいれて、生物圏の歴史をひもとくと、私からみて二つの大きな進化の流れが見えてきます。一つは、バクテリアから人間にいたる生物進化であり、他は生物活動が加わることによって、歴史の流れとともに、より高度な機能を獲得した物質循環系の進化です。
 私は、この両者をまとめで、生元素系の進化、あるいは、生物圏の進化と呼ぶことにしております。この二つの進化は互いに影響しあって発展し、現在にいたっております.
 もし、地球を一つの生命体とみなしうるなら、この二つの進化の軸はDNAのらせんにたとえることができると思います。
 私はこれを″自然と生命の二重らせん″と呼んでおります(上図5)。図のなかで矢印は両者の相互作用を示します。詳しくは左図6のようになります。

生物が利用する物質の循現

 さて、DNAの二本のらせん状のひもは水素結合によって互いに結ばれでおります。自然と生命の二重らせんにおける水素結合は大気と生態系の相互作用にあたります。植物による炭酸同化と酸素の発生、微生物による有機物の分解による二酸化炭索/メタン/窒素ガス/亜酸化窒素/硫化水素の発生などがこれに相当する具体例となります。
 すなわち、これらの過程は、生元素が大気→生物→大気と流れる架橋になっているわけです。生物地球化学的な物質循現のリサイクルはこの架橋システムが担当しているわけです。
 ちょっと窓の外を見てください。森と水田が見えますね。水田からは、メタンを含んだ気泡がときどき出てきます。もしミクロの世界を肌で感じることができるなら、このアワの衝撃は、火山の爆発のように激しいものと思われます。その総量は炭素換算で年間八〇〇億トンにもなるのですから。
 この架橋システムについては、のちほど詳しく説明しますが、この自然と生命の架橋システムの役割から想像されますように、地球の社会化とは、石油の消費や森林破壊などによって、人間が架橋システムに介入した結果起こったわけです。しかもこの介入は性急すぎ、自然界で物質が循環する速度にあわず、時間的なずれが起こり出したわけです。
 私はこれを、人類が仕掛けた生物圏への時間戦争″と呼ぶことができると思っております。
 このようなイメージを頭に入れていただいて、約四十億年以上にわたる自然と生命の二重らせんの歴史的事実を紹介したいと思います。
 人類がこの時間との戦いに勝って、二酸化炭素の問題や人口爆発の問題を解決するためには、この二重らせんの歴史を学び、新しいパラダイムを探ることが大事です。現在、人類は本当の意味でのホモサピエンス(賢人)への脱皮を問われているのです。

 ヴアーダ教授の解説

 二つの物質循環系について

 太陽エネルギーは地上にふり注ぎ、水と大気の運動になる。植物は光合成を行ない、生産された有機物は分解する。このような生物活動に関係した生物圏での元素のサイクルを、生物球化学的な物質循環〃と呼ぶ。もう一つ、長い長いタイムスケールを持つ地質学的な質循環系″がマントルと地殻の運動によってまわっている。海底堆積物はプレートテクトニクスによって海溝に埋没し、ときには造山運動によって堆積岩となる。たとえばヒマラヤは、インド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかって形成された大山脈であり、山の上部には海の生物の化石が見つかる。地質学的物質循環は、海洋での堆積物の形成→堆積岩→風化の経路である。

光合成植物の出現

 酸素を発生する植物が地球上にいつごろ出現したかという問にはストロマトライトという藍藻の化石が答を与えてくれます(写真2)。
 藍藻は細菌と同じように核膜がない原核生物ですが、酸素発生をともなう光合成をします。現在でもこの仲間は海、池、潮、水田などにたくさんおり、たとえばアオコで知られる赤潮をつくるミクロキスティスや、海で窒素固定を行なうトリコデスミウムが有名です(9ページ写真1参照)。
 これらの化石は、浅い海で増殖した藍藻が埋没し、岩石化したものと思われますが、一番古いものとしては三十五億年前のものが発見されました。この藍藻化石に含まれる有機炭素はその炭素の安定同位体比(13C/12C)からみて、光合成によって生産されたものであることが確認されました。このため、現在は光合成植物の出現は三十五億年前と考えられるようになっています。
 酸素発生型光合成植物の炭酸同化は、
2H2O + O2---光エネルギー---> CH2O + O2 + H2O  で書き表わします(図7)。
 ここで左辺の水を二分子にしたのは、酸素が水の酸素原子から生成することを意味して
 おります。
 光合成の材料となる水は地表に充分あります。また太陽もまだ若い星とはいえ、生物にとっては無限に続くエネルギー源でありました。
 さて、二酸化炭素はどうだったのでしょうか。次のように考えられております。
 地球ができたとき、地球内部からは多量の揮発性ガス(二酸化炭素、硫化水素、塩素など)が吹き出しました。これらのガスは地表の岩石と反応し、その生成物は海に運ばれて新しい珪酸塩鉱物となって海底に堆積し、堆積岩となります。しかし弱酸である炭酸は、かなりの量が二酸化炭素として大気中に残ることになります。原始大気中には二駿化炭素濃度が高かったと考えるのが通説となっております。
 藍藻が出現した三十五億年前はどうだったのでしょうか。星の進化の研究によると、当時の太陽はまだ若く、地球にふりそそぐエネルギーは現在よりも低かったと計算されます。したがって、当時の地表で生物が生存できる温度条件を保つためには、二酸化炭素の温室効果を考えることがもっともよい説明となります。このためには、大気中に現在の百倍以上の二酸化炭素が必要となります。一方、ストロマトライト中の炭素の安定同位体比は、その平均値が、マイナス二八パーミル (‰)と、現在生きている藍藻の値(平均マイナス一七パーミル)に比べて低くなっております。
 種々の藍藻を実験室で培養し、二酸化炭素の圧力を変化させてみます。その結果、二酸化炭素分圧が現在の五十〜百倍になったときほぼ同じマイナス二八パーミルという値を持っことがわかりました。この実験も二十五億年前の二酸化炭素の分圧は現在の値より高かった可能性を支持しております。

ヴアーダ教授の解説

パーミルについて

 自然界における炭素の安定同位体比(13C/12C)の変化は小さいため
δ13C ‰=(R(試料)/R(標準)-1)×1000
 で定義されるパーミルを用いる。Rは13C/12Cである。プラスの価は13含量が標準となる物質(海のHCO3とほぼ同じ13C含量をもつ化石)より13C含量が高く、マイナスは低いことを意味する。生物の13C含量は二酸化炭素や重炭酸に比べて低くなっており、つねにマイナスの値を与える。

自然と生命との架け繚、酸素と水素

 現在の海には重炭酸(HCO3-)の形で大気の五十倍ほどの二酸化炭素が存在しております。当然、当時の海にも充分量の重炭酸があったと思われます。このように理解しますと、光合成炭酸固定系は地球上で有機物の生産を永遠に続けられそうな唯一のシステムであったことが想像されます。
 さて、光合成系の出現はその後の進化にとって決定的な出来事になりました。箇条書にすると次のようになります。
1 生物界は水のプロトン(・H)を使う永続的なエネルギー獲得システムを手にした。
2 酸素の出現は有機物を水と二酸化炭素にもどす(CH2O+(1/2) O2 -> H2O + CO2)リサイクルシステムを完成させた。これによって、酸素耐性となった生物のエネルギー獲得効率は飛躍的に増大した。具体的には、一分子のグルコースから、発酵によっては二分子のATP(アデノシン三リン酸)しか生産できないが、酸素を電子受容体とする酸素呼吸では、グルコースが炭酸ガスにまで分解されるため、三六分子のATPが生産できる。
3 酸素を利用できる好気性生物はエネルギーの生産効率が高くなったため、オキシダーゼ、オキシダナーゼなどの酸素を活性化する酵素によって多種類の代謝生物を生合成できるようになり、進化の上で有利な位置を占めるようになった。
4 酸素は地表の還元物質を酸化し、その存在状態に変化をもたらした。具体的には当時海水中に多量に存在した二価鉄やイオウは酸化され酸化鉄(Fe2O3)や硫酸(SO42-)になった。酸化鉄は縞状鉄鉱層として重要な鉄資源となっている。硫酸イオンは現在、海に蓄積している。
さて、このように書き並べてみると、光合成によって水から生まれた水素(・H)と酸素(O2)は自然と生命の二重らせんの主役であったことが理解されましょう。
 すなわち、物質循環系の進化は大気中の酸素分圧の上昇として書き表わすことができますし、生物進化は水素エネルギーの有効利用システムの開発史であったといえることになります。
 次に酸素の物語についてふれることにしたいと思います。

堆積岩に吸収されている酸素

 光合成によって生産された有機物は細菌によって分解され、二酸化炭素と水にもどります。したがって、このままではサイクルが回るだけで大気中に酸素はたまりません。酸素がたまるためには、なんらかの形で有機物が分解されないで保存される状態になることが必要です。
 炭素サイクルを調べると、この有機物の固定化を担っているのが地質学的な物質循環による堆積岩の形成であることがわかります。地球上の炭素のうち、約八〇%は堆積岩中の炭酸カルシウムの形、残りの二〇%が堆積岩中の有機物です。生物は炭素にして六〇〇〇億トンですが、堆積岩中の有機物はその七〇〇〇倍ほどあります。
 光合成の式をみると、一分子の炭素が堆積岩に固定されると一分子の酸素が放出されることになります。したがって現在の堆積岩中の有機炭素の量から、現在まで植物によって放出された酸素の量を計算することができます。すなわち堆積岩の形成された歴史を知ることによって、大気中に放出された酸素の歴史を知ることができます。
 前にもちょっとふれましたように、堆積岩の形成は地球内部から放出された酸性物質と岩石の反応によって始まります。
 マックスブランク研究所のM.シドロスキー(Manfred Schidlowsky)博士は酸性ガスの放出過程、過去の堆積岩中の有機含量を考慮して、酸素放出の歴史を算出しました。その結果、約八割程度の量の酸素が三十億年前すでに放出され、しかもその大部分は鉄やイオウの酸化に使われていることがわかり、縞状鉄鉱層のなかの酸素量、海水中の硫酸イオン中の酸素量を計算すると、それぞれ全放出酸素量の三九%と五六%に相当し、残りの五%が現在の大気中に残っていることになります。

ヴァーダ教授の解説

堆積岩の量

 堆積岩形成の時間経過は、地球内部からの酸性物質の放出の時間経過と一致する。酸性物質の放出は地球形成の初期に激しく(マグマオーシャンのような説もある)、パルス的な地質学的事件をまじえながら、時代とともにゆるやかになってきた。現在の堆積岩はほんのすこしずつ増えてはいるが、その増加は無視できるほど小さい。現在の堆積岩の年齢分布を調べると、そのほとんどは七億年前以降に形成したものである。それ以前の堆積岩は風化によって消失してしまったことがわかる。堆積岩の平均年齢は約三・五億年で、現在はほぼ一定の速度(七〇〇億トン/年)で生まれ、これに相当する量が風化によって失われている。

大気中の酸素の歴史

 これまでの地質学、古生物学、微生物学や年代決定法を中心とする地球化学による知見をまとめると、大気中の酸素分圧(Pos2:現在は0.2気圧であり1 Present Atomos-pheric Level、1PALと表わす)の変化について、次のようなシナリオを書くことができます。
◎地球上に酸素発生型の光合成植物(藍藻)が出現する以前は大気中の酸素分圧は紫外線による水の光分解によって決まっていたのであろう。
◎縞状鉄鉱層の形成年代(三十〜二十億年前)や大陸部赤色砂岩の出現(二十億年以降)から判断すると、大気中に酸素の蓄積はすぐ起こらず、藍藻出現後、十五億年たってからと思われる。
◎二十億年前以降、酸素分圧はゆっくりと上昇し、酸素分圧が0.01〜0.1PALの時代に、酸化還元境界層における微生物生態系の進化が進み、その結果、アンモニア(NH4-)やイオウ(S2-)、マンガン(Mn2+)、メタン(CH4)を酸化してエネルギーを獲得する微生物が出現し、現在の物質循環系の骨格が形成されたと思われる。たとえば窒素サイクルの場合を例にとつてみよう。酸素分圧の上昇によって硝化系(NH4 -> NO2- ->NO3-)の駆動が可能となり、この図のような窒素サイクルが完成した。ここで0.01PALは次のような微生物的な意味を持っている。一般に、通性嫌気性菌はこの酸素分圧の付近で硝酸呼吸と酸素呼吸の切り換えを行なう。また絶対嫌気性菌はこの酸素分圧以上で死滅する(パスツール点とも呼ばれている)。
◎酸素分圧のさらなる上昇は縞状鉄鉱層の二次酸化から知ることができる。
◎大気化学の知見によれば、酸素分圧が0.1PALになった時点で充分量のオゾン層が形成され、生物は上陸することが可能となる。生物が上陸し、活動を始めることによって、生物地球化学的な物質循環系は初めて地球規模(グローバルなシステム)になったわけである。
◎陸上植物の繁栄は酸素分圧を1PAL以上にしたと考えられるが、後述する試算から見て1.2PALがその上限であったと考えられる(石炭紀)。
 以上の事柄をまとめると、大気中の酸素の歴史は図8のようになります。

現在の酸素サイクル

 大気中に酸素が蓄積したことが、地表の物質の存在形態、生物進化の多様性やエネルギー代謝効率の上昇など進化の二つの軸に大きな影響を与えたことがわかります。特に物質循環系の大枠は炭素−酸素−鉄−イオウ(C-O-Fe-S)サイクルと呼ばれる地質学的なサイクルによって決定され、生物進化によって窒素サイクルやイオウ、炭素サイクルの一部が生物地球化学的サイクルとして組み込まれ、酸素サイクルの全体像が成立しています(図10)。
 この意味では、物質循環系は酸素サイクルが中心となります。
 現在の生物地球化学的なサイクルでは、有機物の好気的分解と硝酸の発生とメタンの発生の比率は、一六五〇〇対二三対四〇となっています。
 図10からわかるように、炭素サイクルや窒素サイクルはあくまで便宜的なものであり、全体像は炭素−酸素−鉄−イオウを基盤とする酸素サイクルで見ることが重要となります。
 ここで、現在の酸素サイクルにおける海の役割について簡単にふれておきたいと思います。
 先にも述べたように、生物地球化学的サイクルと炭素−酸素−鉄−イオウサイクルの接点は、海底における堆積過程に始まり、その速度は沿岸域では速く(数cm/年)、外洋では数m/千年程度であります。ここ十年、海洋の中深層水中で、マリンスノーを含む沈降粒子を捕集し、沈降量や分解速度を調べる研究が盛んとなり、堆積物の形成に関して、多くのことがわかってきました。
 平均的にみますと、海洋表面で植物プランクトンによって生産された有機粒子のほとんどは、沈降途中でバクテリアによって分解されてしまいますが、全生産量の0.1%は堆積物中に埋没します。この一連の経過は次のようになります。
 植物プランクトンによる有機物の一次生産を酸素(O2)の重さで表わすと年間八〇〇億トンになります。このうち、一億一〇〇〇万トンが海底に堆積し、その後バクテリアによって堆積物中の酸化鉄(Fe2O3)や硫酸(SO42-)を還元し、最終分解残法として三二〇〇万トンの酸素に相当する有機炭素が年間堆積物中に埋没することになります。一方、この量に等しい堆積岩が陸上で風化されますので、この炭素−酸素−鉄−イオウサイクルは有機物の沈降堆積物→堆積岩→風化の流れで見ることができます。

酸素サイクルの速度

 それでは、このサイクルはどの程度の速度で回っているのでしょうか。一つの目安として、このサイクルの駆動によって、大気中の酸素分圧がどのような速度で変化するかをみる方法があります。便宜的には大気中の全酸素量をこのサイクルの速度で割った時間がその目安となります(約千五百万年)。
 炭素−酸素−鉄−イオウサイクルのすべてのプールとその相互関係を考慮していくつかのトピック的な試算をすることができます。
 ここでは大気中の酸素と二酸化炭素の変化について三つのケースについて行なったギャリル(Robert M. Garrels)たちの計算結果を紹介することにします。
(ケース1)
現在の光合成速度が二倍になったとき
 酸素の放出は二倍になるが、酸素分圧の上昇にともなって、有機物の分解速度も速くなり、酸素分圧は一.一五PALになって落ち着く。一方、大気二酸化炭素分圧はどんどん低下し、〇・〇三PALと低くなり、このため光合成速度も頭打ちとなってしまう(二酸化炭素濃度によって神速される)。このケースは陸上植物が増加した場合や海が富栄養化した場合を想定している。実際の過去にあった例としては、氷期、海洋の上下混合が活発となり、中深層から硝酸や燐酸の供給が増え、海の光合成が活発となり、大気二酸化炭素分止が低下した例がある。
 (ケース2)
光合成が停止したとき
 酸素分圧はじょじょに減少し、五百万午後には〇・五PALとなり、千二百万年後にはほぼ消失する。すなわち酸素サイクルが光合成植物が出現する時代にもどってゆく。この試算から、炭素−酸素−鉄−イオウサイクルの酸い考分圧に関するタイムスケールが千二百万年であることがわかる。二酸化炭素分圧の最終的な値は七〇PALとなるが、これは先に藍藻の培養実験から予測した三十五億年前の値に近いことは興味探い。
(ケース3)
風化速度が三倍になったとき
 酸素分圧は二百万年後、現在の四分の三に低下し、二酸化炭素分圧は現在の二・五倍となる。人間活動によって森林破壊や耕作地の拡大が激しくなったり、土壌が流失しやすくなった状態を想定している。
 これらのケースに対して、大気酸素分圧や二酸化炭素分圧の変化は比較的ゆっくりと進行することがわかります。ただし、この試算では横軸が充分長い時間間隔になっており、大気中の二酸化炭素(CO2)と海洋の重炭酸(HCO3-)はつねに平衡になっていることに注意してください。
 現実の地球では、短いタイムスケールで乱れが起こった場合、すべてのサブサイクルが応答するためには長い時間を必要とします。たとえば大気中に二酸化炭素が増大した場合、大気中の二酸化炭素と海の重炭酸が平衡になるためには、海洋の深層水の循環が示す二千年のタイムスケールが最低必要となるのです。このため、一時的には大気中の二酸化炭素の濃度が高くなり、これが現在知られている化石燃料の使用による大気二酸化炭素分圧の上昇に対応しているのです。

ヴァーダ教授の解説

森林と炭山酸ガス

 アマゾンの森林がなくなると、大気中の酸素がなくなってしまうと考える人が意外と多い。前述の試算からもわかるように、大気中の酸素の存在は堆積岩の中の有機炭素の量によって決まっている。アマゾンは赤道域に存在する森林地帯で活発な蒸散作用によって、大気中に熱を運ぶシステムとなっている。アマゾン域から森林がなくなると、このシステムが壊れるため、異常気象をもたらすおそれのあることが、アマゾン域について世界中が注目する理由の一つである。

二重らせんの不文律

 自然と生命の二重らせんで示した物質循環と生物の共進化は、矢印で示した相互作用を繰り返しながら生物圏の発展を進めてきました。それは前にも述べたように、水循環が投げたボールを光合成植物が投げ返すことから始まりました(『神話1992』を参照ください)。
 このキャッチボールには、暗黙のルールがありました。生物界に登場した選手たちは、このルールを守って、生物圏の市民となっております。私の考えでこのルールをまとめますと次のようになります。
1 進化は作用と反作用の繰り返しで、ゆっくりと行なう。ボールは一個である。
2 太陽エネルギーを捕捉する役割は植物のみがもつ。
3 有機物のリサイクルは細菌が担当し、大気生態系間のガス代謝(架橋システム)の主力となる。
4 動物は太陽、大気、水、植物、細菌が作る物質循環系を利用して、二つの進化を高次機能性システムにする。
5 サイクルは大きなプールを持ち、細くて長いサイクル (地質学的物質循環)と、太くて短いサイクル (生物地球化学的循環)の組合わせから成る。
6 システムの高度化は分業と共生によって可能となる。

ヴアーダ教授の解説

不文律5について

  地質学的なサイクルは酸素の量で三二〇〇万トン/年の速度(フラックス)でまわり、これで大気中の全酸素量を割ると千二百万年のタイムスケールとなる。これに対して、生物地球化学的なサイクルは数日から数千日で二酸化炭素↓有機物↓二酸化炭素の回転を行なっている。
 細く長いサイクルは長い時間をかけてサイクルのなかに巨大なプールをつくり、その系は少々の変動に対して微動だにしない。酸素のサイクルでは堆積岩がこの巨大なプールであり、大気中の酸素分圧は安定に保たれている。この貯金を利用して太く短いサイクルはかなり勝手な動きができるようになっている。

激しい環境変化にさらされる酸化還元境界層

 図5に見られる生元素系の進化は、生物圏を維持する上で、結果として二つの巧妙なシステムを作り上げました。
 その第一は、酸素のある好気層と酸素のない嫌気層が複雑に入りくんだ酸化還元境界層における微生物共存複合システムであります。
 この系は植物、酸素(O2)、硝酸(NO3-)、二酸化マンガン(MnO2)、酸化鉄(Fe2O3)、硫酸(SO42-)を呼吸に使ういろいろな微生物と、発酵を行なうメタン細菌からなりたっております。この酸化還元境界層内での電子受容体の使われる順番は、酸素、硝酸、二酸化マンガン、硫酸ときちんと決まり、これによって境界層はいくつかの層状構造を形成し、好気層と嫌気層が直接接触し、相互の生物に害を及ぼさないようになっております。
 また、嫌気層に埋没した有機物のかなりの部分は、ゆっくりではあるが分解し、大気にフィードバックできるようにもなつています。
 たとえばメタン発酵によって嫌気層で発生したメタンは、酸化還元境界層の酸化部位でメタン細菌によって酸化され、大気中に二酸化炭素として戻ってきます。
 図5で架橋システムと総称する大気−生態系相互作用の主役はこの酸化還元境界層のシステムをイメージしているわけです。
 地球表層に酸化鉄(Fe2O3)や硫酸(SO42-)が形成され、大気中に酸素が蓄積しはじめた二十億年前から現在にいたるまで、少なく見積っても十億年以上、この微生物生態系の世界は激しい環境変動にさらされていたと考えることができます。
 具体的には、藻類が昼間光合成を活発に行ない、酸素分圧、二酸化炭素分圧が変化します。たとえば二酸化炭素の消費は水の水素イオン濃度(ペーハー‥pH)を上昇させ、酸素の発生は酸化還元境界層の位置を深くします。夜になると有機物の分解によって酸素分圧が下がり、二酸化炭素分圧は増えpHは下がるので酸化還元境界層の位置は浅くなるか、まったく嫌気的になってしまう場合もあるでしょう。当然、夜間は水温も下がることが考えられますので、このような世界ではあらゆる環境変動が三六五日繰り返し、これが十億年にわたって続いたはずです。
 十億年で最高三六〇〇億回のpH、温度、酸化還元電位、酸素分圧、二酸化炭素分圧の変動を経験することになります。このような長期にわたる環境変動のなかで微生物群は、広い範囲に及ぶ能力を獲得したものと思われます。微小藻類、硝化菌、イオウ酸化細菌、マンガン酸化細菌、脱窒菌、硫酸還元菌、メタン菌などで形成されるこの高次機能システ仏は分業制になつており、今後の人類が学ぶべき、あるいは見習うべきシステムといえましょう。

太平洋は巨大な水処理システム

第二の例は、完全なリサイクルを行なう″太平洋エコボリス″であります
 化学物質輸送の大筋は、海水から水蒸気が蒸発し、雲となり陸域に輸送され、雨となって陸域を洗いながし、再び海に戻る水循環であります。
 一方、海洋中では北大西洋が北太平洋に比べて塩分量が高いため、冬冷やされた表面水は四〇〇〇m以深に沈むことができます。この北大西洋発の深層水は南下し、南極のウエッデル海で作られた深層水と合流し、喜望峰と南極大陸の間を東進した後、一部はインド洋で湧昇しますが、そのまま東進を続け、オーストラリア大陸の南から太平洋に入って北上し、太平洋で湧昇することになります。この長い深層水の大航海には約二千年の年月がかかります(図11)。
 途中、表面で生産された有機物のかたまりであるマリンスノーが落下し、細菌によって分解されるため、太平洋は大西洋に比べ、溶存酸素が少なく、また硝酸やリン酸、シリカ等の栄養塩が多くなっています。
 太平洋の東部熱帯域では湧昇によって、動植物プランクトンが大増殖し、沈降する有機物の分解によって、さらに酸素が少なくなり、広大な海域の一〇〇〜一〇〇〇m層が無酸素層となります。この無酸素水塊中では硝酸(NO3-)の酸素を呼吸に用いる脱窒菌の働きが活発になり、硝酸が大量の窒素ガスとなって大気に還元されています。これは廃水処理場の二次処理に対応する浄化システムです。 一方、西側の熱帯、亜熱帯太平洋城は貧栄養海域で、太陽エネルギーが充分あるため、窒素固定を行なう藍藻トリコデスミウムが活発に増殖し、付近の海に窒素肥料を供給する働きをしております。
 北太平洋や太平洋城南極海では表面水が中層まで沈み、亜寒帯中層水や南極中層水が形成され、低緯度城に向かって流れ、湧昇します。これら南北からの中層水は温度も低く充分量の酸素を含んでいるため、有機物の分解は好気的条件下で進むので、これはあたかも水処理場における曝気システム(酸素供給システム)にたとえることができます。
 植物プランクトンによって生産された有機物の○.一%は堆積物となって埋没しますが、これらの堆積物はプレートテクトニクスによって、海溝に入り処理されてしまいます。
 物質輸送の終着駅である太平洋はこのような巨大な完全水処理システムとなっており、物質循環が永続するための重要な働きをしているわけです。ここではこのシステムに敬意を表して、″太平洋エコポリス″と呼ぶことにしたいと考えております(図12)。

複合触媒システム科学のスズメ


 人類は七百万年前に出現したといわれております。この間、生元素物質循環系に影響を与えた人類活動はここ一万年に集約されるでしょう。
 その主なものは耕の開始″、化石燃料の使用″、肥料の生産″などです。
 特に、第二次世界大戦以後、人口の急激な増加によってエネルギー要求量と食糧要求量が増し、自然と生命が作り上げた架橋システムのなかに、人類が作った単純な経路を介入させ(化石燃料の使用による二酸化炭素の発生、空中窒素固定によるアンモニアの供給)、しかもその速度を飛躍的に増大させた結果、大気中の二酸化炭素、亜酸化窒素(N2O)、メタン(CH4)の増加をもたらすこととなりました。
 化石燃料の使用ほタイムスケールが一千万年に及ぶ、サイクル内の有機炭素を燃やし、大気中に放出する行為でありますが、大気中の二酸化炭素は植物によって約十五年程度で使われている短いタイムスケールの循環に組み込まれています。
 化石燃料の使用は、この二つのサイクルに大きなバイパスを作ったことを意味します。大気中に放出された二酸化炭素は海洋大循環のもつタイムスケール(二千年)とはマッチングできません。このため、大気中の二酸化炭素濃度は年々増加の遣をたどることとなったわけです。
 肥料の使用による食糧の増産は、分解しやすい有機物を大量に地表に放出することを意味しております。この種の有機物の増加は、生態系のいたるところで酸化還元境界層をふやし、この活動にともなって亜酸化窒素やメタンの生産が増長されることになりました。
 地球温暖化をもたらす懸念が案じられている大気中での二酸化炭素、亜酸化窒素、メタンの増加は人類による架橋システムへの単純な介入が原因となっています。生物圏の作った架橋システムはいまだ完全無欠なものではなく、まだ進化の途上にあり、一部の亜酸化窒素やメタンはリークし、大気中で処理されているシステムなのです。
 これまで人類の作ったバイパスには細く長く、太く短く″分業と共生″を組合わせる視点がまったく欠けていたわけです。
 自然界の架橋システムや太平洋エコボリスは長い時間をかけて試行錯誤しながら、結果としては巧妙な高度複合触媒システムを完成させました。われわれは、これらのシステムを深く理解し、足らざるを補い、新たな高度機能システムを人類社会に導入する必要があます。
 現在起こっている地球の社会化と人類活動は、自然と生命の二重らせんに″進歩のボール″を投げ、それによってひずみが生じ、そのボールを投げ返された状態といえましょう。

自然界のタイムスケールを見据えて


 人類文明は、その発展とともにあらゆる分野で活動のタイムスケールが短くなってしまいました。自然界のタイムスケールは、これに妥協してくれません。ある意味での人類活動と時間の戦いが始まったわけです。これを克服するためには新しい世界観を持ち、すべてをやり直す覚悟が必要です。この意味でも人類がホモサピエンス(賢人)″に脱皮することが問われているわけです。人類革命が始まろうとしているのです。
「時間もきましたので、私(ヴアーダ教授)の今日の講演は、この辺で終わることにしたいと思います。最後にW氏が聴衆の質問『いま、何から始められるのか』に対して苦しまぎれに出した答えを紹介しましょう。ここ三百年の歴史を知っている私たちにとって、これはなかなか興味深いものです」

W氏の答え


 現在の生物圏は光エネルギーによって、水を水素と酸素に分解し、その後また水にもどる(H2O→H2+1/2 O2→H2O)系、ある意味では水素エネルギーの世界から出発し、これにょって発展してきました。
 地球の社会化が起こつた現在、この流れに沿った新しいホモサピエンス物質循環系″を作ることが必要です。
 太陽電池はクロロフィルに代表される光合成色素系と異なり、広領域の波長の光を吸収し、シリコンの自由原子にエネルギーを渡す方式です。現在そのエネルギー収率は一七%までいっているようですが、これは新型の系といえましょう。
 最近、友人の光合成光反応研究の専門家の話を聞きましたが、光合成色素系は進化に対して保守的で、なおかつよくできているので、これ以上のエネルギー効率の大幅な増大(たとえば十倍ぐらい)は期待できないようです。
 どうも私が夢に見ていた空翔ぶ樹は永遠に進化の線上に現われないようです。
 もつと身近なわれわれの生活のなかでやらなければいけないことはたくさんあります。
 二、三例をあげてみますと、あらゆる社会制度は長期と短期の組合わせにすることが必要です。そのなかにきめ細かい共存と分業のシステムを導入することが大事です。
 現在問題となっている炭酸ガスの問題については、炭素のサイクルからみて即効性を無視すれば次のようなことは可能でしょう。
◎大都市を不毛の地(ただし水は必要)に移し、すべて耐火性の木造にする。これによって、都市はサイクルの上では森林と同じ役割をはたせる。
◎有機農法を進め、土壌有機物を多くする。これによって森林をつくる土地も増える。
◎岩石から陽イオンを取り出す。生物活動はおおむね酸性物質(陰イオン)を大気に放出もている。

 これらのいくつかは、人類の精神革命のためだけにでも必要と思うのですが……。

(わだ えいたろう)